Takahashi Tsunemesa Office

Painter, Illustrator

1974 in Vienna and Hamburg, studied by Rudolf Hausner and Ernst Fuchs.(-’78)
1993 ‘Art Works by Tsunemasa Takahashi’ published by Tokuma-shoten

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絵を描く方法

特集 イメージから創作へ

講談社 「103910-月刊フェーマス3月号」誌での特集

高橋常政
KFSアート・コンテストで大賞受賞後、ウィーン幻想派絵画に衝撃を受け、渡欧。オーストリア、ドイツと絵画修行の後帰国。イラストレーターとして第一線で活躍しながら、画家としても作品を発表する高橋常政。テンペラなどの古典技法に習熟し、新たな技法の開発にも取り組む作家が、自らの絵づくりのノウハウを存分に語ります。
1949年東京生まれ。創形美術学校に入学、ヨーロッパの古典技法に触れる。KFSを受講し、‘72年KFSアート・コンテスト大賞受賞。ウィーン幻想派絵画を学ぶため渡欧、E.フックスに師事、さらにドイツ・ハンブルクでR.ハウズナーに学ぶ。帰国後、イラストレーターとして活躍する一方、画家としても個展を中心に作品を発表。

① イメージと発想のための方法

絵を描く時、僕はまずイメージのとっかかりを見つめることから始めます。イラストの仕事の時は間違いなくあるテーマを与えられますから、それなりに資料的な画像を探すことになります。ここで取り上げるのは、それとは別の「自分の絵」を描く時のイメージの捕まえ方です。そのためには、その場であるいは長い時間をかけて見つめることが必要です。

僕のイメージの捉え方はだいたい二つの方向から始まります。一次的イメージ。そして二次的イメージ。その複合した場合もあります。はっきりと分けられた状態で意識するのではないですが、あとで考えるとどうもそういう分かれ方をしている。むしろ、そう意識的に考えるとイメージをつくり出しやすいようです。

イメージというのはもちろんある日強烈に浮かんでそれを描きたくてたまらなくなることがベストではあります。そのイメージに囚われて一生そのイメージを描き続けるのはある意味絵描きとしては幸せなことかもしれません。しかし大半は真っ白な画面にさて何を描こうかと思うことが多い。白い画面は何も訴えてこない。しかたなく描きたい気持ちとは別にあいまいなままで始めてしまう人もいるでしょう。花でも描こうか、景色でも、というわけです。

空間に充満するイメージ

実はイメージというのは空間に充満しています。空間というより時間の中で大きな川のように自分の目の前を通り過ぎている。つまりイメージは何かの出来事に自分が「感じる」ことから始まります。きれいな花を見る、そして感じる、不思議な感覚感情におそわれる、そしてその感じていることをまたも感じる。朝起きて寝るまでどころか、夢の中でも途切れなく続いている。継ぎ目はどこにもなく、前後の関連もはっきりしない。絵のために良さそうなイメージだけでなく、言葉のイメージや、感情的なイメージもみんな入り交じって僕の意識の底から表面まで流れています。そしてそれはささやかで一瞬の風のようなもので何も残らず消えていきます。「あ、何か感じた」といううちにどんどん忘れていきます。

イメージの豊かさとは自分の感じていることに「気づく行為」です。しかし、人間の感覚は感じていることを休みなく「気づく」ことができないような構造になっているのではと思います。そうでないと大量のイメージの負荷がかかりすぎて気が狂ってしまうのかもしれません。だから忘れていくものなのです。しかし何も感じない状態だけだとまるで灰色の世界に置き去りにされたような悲しいことになるから、人間は自分だけでなく人のつくり出したイメージまでも消費するのです。小説も音楽も映画も絵も、人のつくり出したイメージを鑑賞して満足します。ドキドキする冒険の映像も話の筋もそれに感じて満足する、絵も何とも言えない色と形のできあがりを見て満足する。

芸術というのはそれが目的の物です。他の人の感受性を活性化させるというか、人は、経済、政治、法律だけの世界だけではできない、イメージの豊かな世界を消費したいと望んでいる。イメージをつくり出していく行為は、社会がいわば沸騰する圧力釡とすると、その安全弁みたいな役割ではないかと思うことがあります。

絵を描くためのイメージとは

では絵を描くためにイメージをもつということはどんなことか。大事なのはその「感じてい 自分に気づくことです。今感じた、ということを意識の表面という「海の上」に浮かばせることです。意識化して見つめておく、数日間浮かばせておくこともあるし、一年も浮かんでいることもある。浮かんでいても見えなくなって消えてしまう物もある。たえず海の上に浮かんでくるイメージの泡を見つめることです。そんなに大層なこ とではないのです。あれ、この今見た風景にいいなと感じたのはなんだろう、何に感じたのだろう、色か形か、光か。今感じているこの感情はなんだろう、悲しいようなつらいような、でもなんだか懐かしいような、これは絵になるだろうか。そして意識化して自分の意識の「海の上」に浮かばせる。例えば観光地に行って、絶景の風景を写真に撮る。帰ってそれを見る。絵に描いてみる。なんかつまらない絵だ、うまく描けない。これに抜けているのは描く技術の不足だけではありません。感じている自分を十分に意識化していないのです。

絶景のポイントの紅葉を見上げているその足の下に一枚の紅葉の葉っぱがあります。それを見つめてみるとわかってきます。これが今目の前の紅葉の森に充満しているのです。葉っぱの複雑さと目の前の紅葉の森の複雑さとは違いがないのです。それよりも木々の間の真っ暗な地面にキノコがあったり虫の死闘があったり、顕微鏡でみれば一握りの土に100億もの細菌がいる、観光地の紅葉の写真よりもすごいものが見えるかもしれない。それを感じているのかもしれないのに気がつかない自分がいる、ということです。

② 一次的イメージをつかむ

一次的とは実際に目にしている目の前の現世界そのものから受けるイメージのことです。簡単に言えば、これからいつも通る見慣れた公園にでも行ってみる、ベンチに座ってなんだか好きな場所を見てみる。端のほうの木の生え方が好きということに“気づく”。それだけです。身近な例をあげてみます。僕のアトリエに行く道でぐっと曲がったところがあります。そこに小さい神社がある。ここが好きと思うと妙に不思議な空間に見える。ずっとそれには“気づいている”。でもこれはまだ絵になりません。しかし後に絵になるのはまぎれもなく、こういう心の動きです。
具体的な作品で見てみましょう。
(写真-1)は、自宅のマンションの間の植え込みです。引っ越してきた時からなんだかおもしろいとずっと思っていました。南の国のような感じがしたのです。それを描いているうちにフェンスは消え、空は青ではなく黄色く描き始めました。夕焼けが美しかったから、でもそのうち雪が降る日があった。数日、雪が残って、消えていく、絵に雪を描いたら空の黄色と合わないのに描いてみたい。だったら雪を降らせてしまえ。 感じたことをそのまま描いてしまっています。そしてできあがったのが『夏ノ夕暮レノ雪』(図─1)です。一年くらい描き続けていました。
(写真-2)は雪景色を描きたくて越後湯沢まで行きました。もう春が近かったので目当ての雪はほとんどなく、かなり歩いたところでやっと雪の残る所に出て写真を撮りました。特に特徴 のない町の裏の小さな畑です。この写真をもとに絵を描き始めました。何か感じるものがあったのですが描いているうちに見失い、しばらく放置。また描き始めた時に撮った時の気持ちを 思い出しました。そんなことを繰り返していました。 そしてできあがったのが『湯沢ノ雪ノ夜』(図-2)です。描いているうちに夜の絵になってしまいました。グレーの空に薄く青を塗っていると、どんどん青が濃くなって夜になってしまったのです。画面左の方になんか雪だるまがいるような気分で描いていました。光があってそこに雪だるまがいるのではというイメージです。何度か描きかけましたがやめておきました。この二つの夏と冬の絵はイメージを持ってから1年くらい描いていました。一次的イメージをずっと育ててきたような感じでした。これらの絵が良いか悪いかは読者の判断ですが。描いている間のイメージの動きが現実の一次的イメージから離れていくことがわかってもらえると思います。 自分には絵のリアルな写真的な写生、いわゆるスーパーリアリズムは描いていても苦しく、向いていないようです。

(図-3)は洋梨を三個並べて描いただけのものです。台所の棚の上に置いておいて数日間そのままにしてありました。寝る前に部屋の明かりを消したときガス台の手元灯だけがついていて、その弱い光の中にこの洋梨がありました。
何かの美しさを感じてカメラで撮っておきました。そのまま長いあいだデジカメのメモリの中に入れたままでした。メモリの整理をしたときに見つけて、影のでき方が美しいと思って描き
始めました。前掲の二つの絵とは違って、素直にそのまま描写をして短い時間で完成しました。ただなぜかわからないのですが、この絵は大きいのです。20号あります。実際の洋梨の大
きさの5倍ぐらいに描いている。おそらくは洋梨のぽってりした大きさを感じていたのではと思います。
一次的イメージを描く時は、先ず感じる、そしてそれを意識化する、そして育てるように描く、イメージが元の単なる写生で終わらないように
描きながら育っていくイメージを生かすような方法です。この方法は僕には有効ですが読者の判断はいかがでしょうか。
しかし僕の絵の方法はこのあとふれる二次的イメージでの制作の場合が多い。きっちりと分けられるわけではありませんが、でもだんだんに一次的イメージの方法が増えつつあります。

ジが生の状態でごろごろ転がっている。茹でた 影響を及ぼすイメージ ての野菜をタッパーウェアにいれておいたところ、蓋に水滴がついた。その美しさにびっくりしたが、まだ絵にはできない。マンションの近くの海で拾ったアサリ。その時もアサリの色の美しさに興奮してなんとか絵にしたいと思い続けて5年も経ったがまだ形にならない。そして放っておいて芽が出てしまったさつまいも。色や形がおもしろくて少し切り取って写真に撮っておいたが、これも絵にしにくい(写真-3)。しかし最近やっとアイディアが固まってきて、一つの島と見たらおもしろいのではないだろうかと準備を始めました。身近な所で見つけた一次的イメージの例ですが、遠い所に旅行しても、家の台所の隅にでも、いま部屋の窓から入って来た光に照らされたカーテンの影の形でも、イメージが充満していることがわかってもらえると思います。

イメージを定着させる方法

一次的イメージを定着させる僕の方法は次の単純な作業です。
感じている自分に気づく。何らかのメモ、スケッチ、デジカメ等での撮影をしておく。これだけのことです。しかしあっという間になぜこんなスケッチをしておいたのか、このメモは何の意味なのか思い出せないということになります。それらがどんどんたまってくると、今度はそのイメージをと、さがしても見つからなくなる。僕の場合は小さいスケッチブックにざっと描いておいたものがアトリエのあちこちに置きっぱなしになっています。結局はこれらが時間の中で選択されて残る物だけが絵になるようです。他の人には無意味な小さい走り描きがただ積み重なっているだけなのです。

③ 二次的イメージをつかむ

二次的イメージとは、誰かの表現したイメージがもとになるということです。誰かの絵をソースとしてそのまま描いたのでは、剽窃、パクリ、真似ということになってしまいます。しかし人間はまったくの無から何かを創造することはあり得ないと思います。何かの影響を受けていくのは当然のことです。世界最古の絵かもしれないアルタミラの洞窟の牛の絵も、もしかしたら、そばのまだ埋もれたままの洞窟に描かれている別の人の絵を真似したものかもしれない。ぱくる、真似をする、模倣する。これらのことは正面を向いて見据えるべきことです。何かの修行をするとき師匠の真似をして覚えていきます。
「オマージュ」これは尊敬する意味を含めて描く。「パロディ」これは皮肉を交えて誰でも気づくように描く。「引用」これはオリジナルを明らかにして自分の作品の中に取り入れる。そ して「パクリ」これは誰も気づかないだろうと元の作品を模倣する。「パクリ」以外は元の作品のソースを明らかにすれば著作権の問題は起きにくい。
著作権というのはいろいろ考えなければならないことが多く、これ以上ここではふれませんが、とにかく人の作品には敬意をもって接することです。僕も恥ずかしいことに、今までにたく さんの絵を意識的、無意識的に模倣してきました。描いているうちに自分の考え出したものと勘違いしていくのです。このことが一番怖い出来事です。これを避けるには、いま自分の描い ている絵は誰かの表現したものから影響を受けて制作されたことをいつも忘れないことです。そういう意識を持てば模倣が勉強になります。

影響を及ぼすイメージ

影響を受けるということはまず、模倣から入りますね。勉強のためならコピーのように描くことはOK。どうやって描いているのか繰り返してみる。これは正しい。だんだんその技術が染み ついて違う形になってくる、そして新しい自分の方法を見出してくる。これも正しい。そして自分の作品になって発表する。このシンプルな方法だけが影響をコントロールするたった一つのやり方です。でもものすごく大変で時間がかかる。これをまともにやる人は意外に少ないのかも。僕はルネサンス期のテンペラ画から脱するのに40年もかかった。いや脱したかどうかはなんだかあやふやでまだ曖昧です。
影響はなにも他の絵からとはかぎりません。人のつくりあげたイメージの作品なら、どんな物からでも影響を受けます。僕のいう二次的イメージとはそのことを指します。人の表現物からのイメージ表現です。映画を見る、小説を読む、音楽を聴く、ある建物の中を歩く、料理の盛りつけや味、全部人の表現したものから絵にすることができるのではないかと思います。もちろんそれは逆もあります。名画からヒントを受けて音楽ができあがる。小説ができあがる。映画ができあがる。音楽から小説ができることだってある。それは何も芸術作品からとは限りません。日常のそのへんにある誰かのつくったものでももちろん対象になります。

例をあげます。
作品『森の入口で』(図-4)のできあがり方はある偶然からです。町を歩いているときにボッティチェルリの「春」という絵のことをぼんやり考えていました。暗い地面と植物のシルエットの上に人物がいる構図です。あんなものすごい絵は描けないけれど、もっと単純に描けないだろうかと思っていました。そのとき前を歩いている女性のセーターがそういう感じに見えました。暗い緑だか黒っぽい地に華やかな色の模様がある。それがなんだか望んでいる構図に見えたのです。すぐに道の端に行って小さいスケッチブックを出してサインペンでちょこちょことメモしました。道の真ん中で描くのはやや恥ずかし ほとんど走り描き。イメージはあまりにもすぐに通り過ぎるのでスケッチしている暇はないから、メモもしくは走り描きが僕のスケッチブックのほとんどです。ほとんど30秒くらいでした。
これはそのときに描いたメモを復元した物です(図-5)。残念ながらもとのメモは絵具まみれになって紙くずみたいになってどこかにいってしまいました。だいたいこんな感じだったという再現です。この小さいメモがこの絵のもとになりました。通りすがりの女性のセーターの模様のイメージと自分の描きたい漠然としたイメージが重なって作品化していきました。絵は 明らかにボッティチェルリの影響を受けていますがセーターの模様の影響で別の絵にかろうじてなっています。作品がいいか悪いかは別です。
次の作品『FESTINA LENTE』(図-6)。この絵はこのエングレービング(銅版画) (図-7)がもとになっています。写真がまだ一般的でない時代の百科事典で、レンガのカマドの図解です。理由はなくこの図になぜかずっと魅かれていて、いつか何かに描こうと思っていました。
次の『夢の中で見た子供』(図-8)は夢の中でみたような記憶をもとに描いています。しかし何か外国のコミックにでてきたキャラクターのような感じもしますが、出所不明。そのスケッチです図-9)。正直いうとすごく危険です。もし誰かこの絵とそっくりの絵を見たことがあったらお知らせください。こういう場合もあります。

新しい物を生む古い物

こういうふうに僕の「二次的イメージ」とは模倣や影響、パクリとすれすれの境界にあるようなものです。現代の都会に住んでいれば毎日ものすごい量の映像的イメージが自分の周りを通り過ぎていきます。僕らはそれらから逃れることは難しい。むしろ十二分に楽しんで消費している。山奥の電気もないところで育って絵が好き、でも印象派もルネッサンスも若冲も見たことがないというような生活ではありません。アルタミラの壁画から現代美術まで僕たちは映像イメージから創作へ高橋常政の絵づくりレッスン特集として“経験”してしまっているので、なんらかの影響を受け続けています。長い年月人間たちが築き上げてきたイメージが織物の縦糸と横糸が織りなすように影響しあってさまざまな作品を生み出してきたのです。その時々にまったく新しく見える革新があってまた違うイメージを生み出していく。しかしまったく新しい物が生まれるためには古いものの充実が必要です。しばらくするとその古いものが急に新鮮に見えてくる、昭和のものを若い人たちが興味を持つ現象があります。僕らの世代がどんどん捨て去ってきたデザインをなんだかいいと取り上げる若い世代の人たち。そして若い人たちがそこからまた新しいデザインを生み出している。ほんとうにおもしろいと思います。