Takahashi Tsunemesa Office

Painter, Illustrator

1974 in Vienna and Hamburg, studied by Rudolf Hausner and Ernst Fuchs.(-’78)
1993 ‘Art Works by Tsunemasa Takahashi’ published by Tokuma-shoten

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ルドルフ・ハウズナーのこと

■教師ハウズナー
確かに僕はハンブルク市立美術工芸大学にあったルドルフ・ハウズナーの教室に二年間(1976-78年)ほどいたし、ハウズナーのアトリエで一ヵ月ほどアルバイトもした。そしてその前はウィーンに一年住んでいたし、またその前はエルンスト・フックスのセミナーに出て、それこそウィーン派に頭までピクルスのようにどっぷりと漬かってきた。それでもなんだか僕にはウィーン派というものがまだよく解らず、僕の描く絵の方向にどんな影響を与えたのか見当もつかないでいる。ただ、僕はフックスがあんなとてつもない絵を描いた画家なのに、ユーモラスでやさしく、ひげづらの、少し気の狂った、パワフルなおもしろい人だったのをなつかしく思い出すのだし、それはある面でハウズナーについても同じだと思う。僕はハウズナーについて言いたいことをたった一言ですませることもできると思う。それはハウズナーはやさしい、おじいさんだった、ということなのだ。
僕はハウズナーの教室に聴講生として潜り込んだのだけれど、いきなりはいってきた東洋人に教室の学生達はほんとうに良くしてくれた。ある意味ではこの学生達に、僕はハウズナー以上の影響を、その後二年間にわたって受け続けたのかも知れない。ハウズナーは学校にいつもいたわけではない。およそ三ヶ月に一度ぐらいの割合いで、批評会のようなものが開かれ、その時にだけハウズナーはウィーンからやってきたのだ。それ以外、僕達学生はまったく自由に絵を描き、教室にはハウズナーの影さえ感じることはなかった。しかしその批評会の時は、学生達も、この教室がハウズナー教室であることに突然気付くらしく、どこか神妙に自分達の絵を見せ、ほんの少し緊張しながらも自分の絵についての意見をまくし立てていた。どこの学校の学生でもこういうことはあると思うけれど、彼らはけっして自分達の教授であるハウズナーのことを、よく言わなかった。付けたあだ名も三つや四つではなかったし、ハウズナーが来ると聞くと教室からいなくなってしまうやつもいた。
そして彼らの描く絵はハウズナーからの影響を受けたリアリズムというよりも、むしろ当時流行していたアメリカからのスーパー・リアリズムに強く傾いていた。そして、かえって僕のほうが、ハウズナーの影響やフックスの影響をもろに受けていて、しばらくの間、何だか変に居ごこちの悪い思いをしたのだ。よく考えるとこのことの意味はかなり根深くて、外国に住んで絵を描こうとする日本人の画家が、一度は悩む問題かも知れない。しかしそのことにここで触れてみても、しようがないだろう。
僕がいま語らねばならないのはハウズナーのことだった。批評会でのハウズナーは何だか少し無理をしているような感じだった。つまり学生達のまくし立てる意見に、ほとんど興味を失っているのに、教授の立場上、聞いてあげようとする努力や、ふだん自分のことについておまえ達がろくなことをしゃべっていないのは知っているのだぞ、というふうな、わりあいにハードな態度が、あるいは僕の気のまわしすぎかも知れないけれど、感じられるのだった。ろくな事をしゃべっていないのは事実だったけれど・・・・・・・。
僕は学生達と安ワインを飲み、夜中までスーパーマンや、ゴジラの話をし、マルクスブラザーズの映画を見に行き、ポルノ街の看板描きのアルバイトを一緒にした。そしてハウズナーについていろいろなことも聞かされた。その半分はただのゴシップであり、他の半分はまじめな、ハウズナー論でもあった。ハウズナーの学校内での政治的な立場から、まるでワニのようにスープをすすることまで、ハウズナーについて僕の耳に彼らはいろいろ供給してくれたのだ。しかし、そんな話の中で、興味深かったのは、こんなことだった。ビートルズが、まだ無名だった頃ハンブルクのスタークラブという所に長い間出演していたのは、今では有名な話だけれど、その当時、美術学校の学生達がビートルズのあまりのワイルドさに感激して毎晩のようにおしかけていた。そしてその中によくハウズナーの姿も混じっていたというのだ。何だかその話を聞いた時、僕の気持ちは、その時代の、その場所に居あわせたらと、うらやましさで一杯になってしまった。ビートルズの年語とハウズナーの作品の制作年を比べるとビートルズがハンブルクで演奏していた頃、ハウズナーはまだ主要な作品を半分も描いていない。僕は、できたらそんな時にこの教室にいたかったのだ。ハウズナーの年譜では、ハンブルクの教授になるのは、まだ先のことだけれど、おそらく客員講師のようなものであったか。学生達の作り話かも知れない。でも、それはどちらでもよい事だ。残念に思ったのは、僕がハンブルクに居た時には、ハウズナーは、あたりまえのことだけれど、もうずっと以前に巨匠になってしまっていたということなのだ。
■巨匠であること
僕はそうなったことがないので、ただ想像するだけなのだが、巨匠という状態、もしくは状況は、いわば自己充足してしまった状態で、まわりに与えるものは影響というより、むしろ追随なり模倣なのだ。それに、その巨匠自身も、自分が巨匠であるために必要とするエネルギーのほとんどを、そのレヴェルを固定化するだけにのみ費してしまうような気がするのだ。僕はアシスタントとして、たったの一ヵ月だけれどハウズナーのアトリエで仕事をしてきた。僕のしてきた仕事の意味は、僕自身が解決することだから、そのことについては何も言うまい。しかし、アトリエで、見たもの、聞いたもの、感じたことは、こんな言い方がはたして妥当だとは思えないが、他に言葉が思い浮かばない。それは、ハウズナーはひどく疲れているみたいで、疲れているのに描かなくてはならないのが、かわいそうだと思ったことなのだ。自分でも、むちゃくちゃな印象だと思う。だけれども、僕は僕なりに、画家としてハウズナーに反発していた所もあるし、それ以上にハウズナーの絵を敬愛していたのだから、僕が、こんな感情を持ったことで、僕自身一番混乱してしまったのだ。
十年も前にみたウィーン派の東京での展覧会から、ハウズナーの作品は、18:37ひで僕にとって画家の想像力の在り方の一つの手本でもあり証でもあった。僕はどんなにハウズナーのように描きたいと願ったか知れない。そしてハウズナーに出会い、わずかの時間、そばで仕事をしてきた今でも、その気持ちは変わらないけれど、ハウズナーが描かねばならなかったものを、ハウズナー自身、もう描き尽してしまったことは事実だと思う。でき上がってしまったものをくりかえすのは一種のパロディにしてしまうことなのだろうし、それ以前の段階で画家がくりかえすのはマンネリズムなのだろうとも思える。僕は全部がそうだとは思っていないが、今の一部の、いわゆる現代美術の風潮のように、新しいことをしているから、新しいことをはじめたから、意味があると思うような、高度成長時代の超進歩主義者的な考え方にはついて行けないのだけれど、アーティストの想像力が目指すものが、その想像力自体の成熟を目的として、持続して行くものなのだとしたら、巨匠と呼ばれるアーティスト達の方向でさえたえず移り変わって行くものだろうと思う。そして成熟の次にくるものが頽廃だとは信じたくないし、まだ若い画家にとって、これからその想像力の成熟を目指すアーティストにとって、頽廃が、次にくる約束のものだとは認めたくはないのだ。 僕はいまの自分が、西も東もまだよく解らず、毎日忙しそうに絵を描き、生活しているので、ハンブルクにいた頃、ウィーンにいた頃のことを、あまり思い出したりはしない。けれどハウズナーについて、言おうとするとき、彼はやさしいおじいさんだったというだけで充分なのだろうと思う。

(たかはしつねまさ/画家)
*これは雑誌「美術手帳」1985年5月号(美術出版社)のハウズナー特集に掲載されたものを著者の許可をえて改題転載したものです。