Takahashi Tsunemesa Office

Painter, Illustrator

1974 in Vienna and Hamburg, studied by Rudolf Hausner and Ernst Fuchs.(-’78)
1993 ‘Art Works by Tsunemasa Takahashi’ published by Tokuma-shoten

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色鉛筆と透明水彩の併用技法

色鉛筆と透明水彩の併用技法

前回に続いて、「うまい、へた」ということの続きです。技法は水彩絵の具と色鉛筆の併用です。これはある雑誌で昔の日本の経営者を描く仕事でした。前回の水性クレヨンのシリーズは別の雑誌で、欧米の昔の科学者を描きました。違う雑誌なので材料と描き方をすこし変えたかったのです。昔の西洋の科学者の顔なんかは知られてないので好きにデフォルメできて面白かったです。しかし日本人の経営者の顔は知っている人も多いし会社の方からクレームがつく。なのでややリアリスティックに描くことを選びました。
(画像1渋沢栄一、2沖牙太郎、3五島慶太。日本能率協会マネジメントレビュー誌)
僕は人の顔を描くのが大好き。顔は細部の動きで表情が変わる。ある歌舞伎役者の顔を描いたら私の眉毛はもっと長いとクレーム、描いてる眉が長過ぎるので直したのに。ああいう人たちは自分の顔をよく観察してるもんだと感心。
さてレイヤー技法でおじさんを描くと何か暑苦しい。昔の人は威張った顔が多い。でも、じいさんばかりの表紙で、さわやか?で!軽やかにリアルに描けないかと、この方法を考えだしました。仕事の内容で描き方を変えるのは大事、でもやりすぎるとあまりいい結果にならない。あの人はあの絵だと決めつけられるのもいやで技法を変えたけど、僕は「器用貧乏の穴」に落ちた感じもある。つまりそれぞれの技法において「そこそこうまく」描くつまらなさです。メインの自分の技法を積み上げるべきかも。でもこの技法はあえて紹介します。水彩の自由さと描き込む細かさ、これも方法は簡単です。

さて「うまい、へた」の話。普通、多少リアルに描ければ、絵がうまいと思うでしょ?。でもうまいへたはそれではない。描かれているイメージのあり方のほうがはっきりうまいへたがでる。素材が良いと料理がへたでもある程度は美味しい。描き続ければ誰でもある程度はできるようになる。でもそのときに恐ろしい意識状態があらわれます。悪い素材でも「そこそこうまく」料理してしまうこと。つまり「慣れ」です。形ばっかりの懐石料理とか、ちり紙交換の声とか、素人を小馬鹿にするような場慣れしたNHKのアナウンサーとかいますね。「慣れ」でどんどん仕事を進めてしまうやり方です。表面上はうまいけれど「心からの、、」が感じられない。ちり紙交換の声に感動はしないけど。

僕の失敗した絵はそういうものが多いです。良い材料を最適の調理法で料理すること。今気づいたけれど逆はできないですね。いくら調理法がうまくても良い素材は作れない。イメージについてまだうまく言えないところが沢山ある。このあともイメージについては触れて行くつもりです。

前回の良寛の書「天上大風」ですが村の子供の凧の為に書いた字です。こういうフラジャイルな字が時代を経て残っている。当時の人の目の確かさ!他の書もじっと見てると(画像4良寛いろは)うまいへたという次元を超えてる。

仕事をやっていく上で自分の技術に慣れきってはいけないのです。良寛の書を愛した夏目漱石は「守拙」ということを言ったそうです。「拙」つたなさを守るということ、おそらく自分はヘタクソなんだといつでも思ってろ!!ということかな。自分のヘタクソさを忘れなければ、良い絵を描くんだと顔は上を向いている。そして謙虚さが足元になる。自戒!

幼児の絵を真似て描くヘタウマの人たちがいます。大人の目で見た子供風の絵を描くという一つの「技術」です。幼児の絵のようになればなる程「うまい」という逆説。幼児に描かせた方がいいのではと思うけど仕事にならないだろうな。僕がアートディレクターならやってみるのに、幼児と打ち合わせ!むりか。

うまいへたについてさらに考えてみます。タレントが絵を描く。あのタレントが絵を描いてるからと人が見る。画家からみればとんでもないものばかり。でも注目されたらすかさず事務所が画伯宣言とかして観光地に美術館なんぞ作ってしまう。とにかく人がくればいい。見に来る人は絵のうまいへたなんぞよくわからず、美術展に行けば入り口のパネルの文を読んでからという人たち。人前で何かをやることが得意なタレントは自分の絵の本質がどうあれ、恥ずかしいとは思わない。強烈なナルシズムもある。事務所も商売だとがんばる。マスコミも埋記事になる、とすぐやってくる。そして絵はがきだのが売れる。ほとんどの画家は売れず注目されず想像の苦しみの中で黙って一生終える。画家は私の意味は?と、タレントの「うまそうに見せる絵」をみて悲憤慷慨するが、注目され売れた方が勝ち。この状況は絵とか書だけかも。タレントが大きな筆で墨をまき散らす滑稽な書芸術パフォーマンスとか。しかし他のジャンルはそれなりにきびしい批判がある。うまそうな音楽も文学もありえない。うまそうなダンスも演劇もない、客はすぐへたなものを見抜く。なのに何故、絵にはこんな変なことがおきるのだろう。絵や書の図像という表現には人をだませる余地があるのか。なんだか救いがない、、、空を見上げるが水色のペンキに見えてくる。

ゴッホの絵は死後40年間ひと室に放り込まれたままだったといいます。弟のテオの奥さんがしまっておいた。ありがとうと言いたい。もし捨てられていたらしみも残さず消えて、美術史の中にゴッホはいなかった。長谷川等伯も若冲も明治になってから、等伯は名前さえも埋もれていたようです。

ぼくは最近やっと「絵は売るものではなく描くものだ」と思うようになれたけど、結局「うまいへた」というのは外的な表面としてではなく、絵描き自身が自分と立ち向かうべき姿勢なのではないかと。説教じみたぼやきみたいになってきたのでもうやめます。これ技法の原稿でした!すまぬ。

 さて技法にもどります。